キャスリン・ペイジ・ハーデン 著『遺伝くじ なぜDNAが社会的平等にとって問題になるのか』(2021年)

原題

The Genetic Lottery Why DNA Matters for Social Equality /出版社:Princeton Univ Pr 刊行年:2021年9月

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https://www.amazon.co.jp/dp/0691190801

著者について

キャスリン・ペイジ・ハーデン(Kathryn Paige Harden):テキサス大学の心理学教授で、心理学及び行動遺伝学を専門とする。本書が初の著作となる*1

Twitter:@kph3k

速評(評者・田楽心)

 現代のレイシスト(人種差別主義者)は、遺伝子に大きな関心を抱いている。例えば本書の著者ハーデンの「非認知スキル(自制心や協調性など)と遺伝との関係」に関する論文への、Twitterからのアクセスを分析した結果がある。これによると、アクセス上位6クラスタのうち5クラスタは研究者のアカウントからだったが、1クラスタは自己紹介文から白人至上主義との関連が示唆されるユーザーたちだった。

 レイシストが遺伝子と社会的格差との関係に大きな関心を寄せるせいで、このテーマを研究すると、しばしば「差別主義者だ」と非難されたりタブー視される。ハーデンは同僚から、人間の遺伝子と教育的達成度との関係を研究することは「ホロコースト否定論者と変わらない」とメールで警告された。レイシストはなぜ遺伝に関心を寄せるのだろう。

レイシストや「自分は人種問題を現実的に捉えている」と自負する人々が好む論理がある。それは「もし人種グループ間に能力差とそれが引き起こす社会的格差があり、能力差が人種間の遺伝子の違いから生じている場合、社会的格差を放置しても道義的責任はない」という論理だ。人種間で遺伝子に「優劣」があるという証拠を見つけたいのだろう。レイシストのみならず、一般の人々も「個人間で遺伝子の違いによって能力差が生じている場合、能力差から生じる社会的格差を放置しても道徳的責任はない」というバージョンを暗に受け入れている事が多い。現状では、「遺伝子格差」に対策が必要だと議論されること自体がほとんどない。このため人々はここに大きな問題があると自覚していないのかもしれない。後に見るように、ハーデンはこうした「遺伝子自己責任」論理に反対するために強力な援軍を呼び出す。

 本書の大きな目的は、「遺伝子ー社会関係の研究は、人種差別や障がい者差別を擁護する」といった非難に反論し、遺伝子ー社会関係の研究が平等主義者にとって重要であると示すことだ。ハーデンも平等主義者からの批判に十分な紙数を割いて応答しており、「優生学の亡霊」*2と対峙することに本書の大半は占められているとさえ述べる。それでもハーデンは平等主義的なヴィジョンとみずからの遺伝子ー社会関係の研究は両立できるとし、またリベラルが遺伝に関心を持たなければ、非リベラルな価値観の人々がこの分野を支配するだろうと懸念する。遺伝子が重要だということは、環境や社会と遺伝子が無関係であることを意味しない。むしろ密接に関係していると本書は論じる。

 本書の読みどころを3つ紹介する。まずは「多遺伝子指数 Polygenic index」やゲノムワイド関連解析(GWAS)といった分析手法に関するものだ。多遺伝子指数とは、「大学を卒業した」などの特定の人生の結果[output]と相関する膨大な遺伝子変異の数を、過去の研究からの推定に基づく相関の強さ(重み)とかけ合わせた上で、集計した数値だ。意味が分からないかもしれないので解説する。遺伝子から人生への影響とは大抵「ちりも積もれば山となる」に近い現象だ。我々は中学校でメンデルの法則を学ぶ。メンデルの法則を知ると、「頭の良さ」や「精神疾患」や「性的振る舞い」なども、1つの「遺伝子」の違いによって、1か0かでデジタルに決定されると考えたくなる。実際、それに近い病気(単一遺伝子疾患)もある。しかし身長や性格や認知能力といった大抵の特徴には、何千何万という規模の遺伝的変異がわずかずつ影響していると考えられるようになった。ミステリーで言えば犯人が1人であることは稀で、実は数千人数万人が共犯であると分かったというのが近年の状況だ。身長のように一見単純な特徴でさえそうなのだ。だから何千何万という数の変異の影響を足し算しなければ、遺伝の影響は分からない。ハーデン曰く、多遺伝子指数とGWASを用いる手法は、『食べログ』のようなレビューサイトにおける★(評価)の数や点数と、個々の料理店の料理レシピ(調理マニュアル)における、「ここで塩を何グラム使う」などの記述との相関を調べるようなものだ。もちろん、塩と砂糖を間違えると味は一変するし、同じレシピでも肉や野菜(社会環境に相当する)の質によって味が変化する。

 多遺伝子指数を用いた、さまざまな研究成果を羅列してみよう。ある多遺伝子指数が遺伝子分布の上位4分の1に入る人は、下位4分の1に入る人より4倍も大学を卒業する可能性が高かった。同じ教育を受けた人と比較しても、多遺伝子指数が1標準偏差分上がると、財産が8%増加した。白人の定年退職者を対象としたある調査では、多遺伝子指数が低い人(下位4分の1)は、高い人(上位4分の1)に比べると平均47万5,000ドルも財産が少なかった。また「認知能力、パーソナリティ、教育、雇用、アルコール依存や肥満といった健康への危険、精神障害、対人関係」という7領域のすべてに遺伝が影響していた。家族の社会経済的地位よりも、生徒のDNAから得られる情報の方が、生徒の学業成績をより良く予測した。およそ50年間の歳月と100万人の双子を対象とするメタ研究が、「遺伝子が違えば人生も違う when people inherit different genes,their lives turn out differently」という「圧倒的結論」を支持している、とハーデンはしめくくる。「大学進学および卒業」という結果に対して、少なくとも家庭の所得と同じ程度には、遺伝が相関するようだ(下記図参照)。

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一卵性双生児で、同じ両親で、同じ場所で育った二人が、異なる教育結果を出すことはほぼないとされる。二人の大学入学試験のスコアはほぼ同じになる

 本書第二の読みどころは、社会と遺伝との相互関係だ。ハーデンによれば抑圧的国家よりもリベラルな国家の方が、また社会的流動性の低い社会よりも高い社会の方が、遺伝と教育的達成との相関が大きく出てしまう。例えばエストニアでは、ソ連時代よりもソ連崩壊後のリベラルな社会の方が、多遺伝子指数と教育的達成との相関は大きかった。これはいかに遺伝的素質が高くても、自由な選択や競争のシステムが弱い社会では、個人が才能を開花させられないためと推測される。「アメリカン・ドリーム」のイメージとは裏腹に、アメリカよりもデンマークの方が社会的流動性(出世の機会)は大きい。そしてアメリカよりもデンマークの方が、教育的達成度に対する遺伝の影響が大きい。言い換えると現代の福祉国家は、遺伝が社会的格差を生む可能性が大きな社会でもある。つまり本来なら遺伝の影響をより深刻に考えなくてはいけない社会であるようだ。興味深いことに、女性の教育機会が増え男女平等化が進むほど、女性の学歴と遺伝の相関が大きくなる。また貧困家庭で育った子どもの認知能力に対する遺伝の影響は、裕福な家庭の子どもよりも小さくなる。言い換えると、大きく育つ植物品種の種を蒔いても、水や日光や肥料が十分でなければ小さいままである。裕福な家庭にはこうした資源が豊富にあるため、子どもの遺伝的素質をより引き出せる。「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」というマタイ効果は、遺伝と環境の相互作用に関しても通用する。

 遺伝の影響は、社会科学者にとっても重要だ。遺伝の影響(交絡)を無視する社会科学者は、そのことで因果関係の不正確な推定を行い、税金を無駄遣いしてもいるとハーデンは批判する(第9章)。例えば遺伝的に言語能力が高い(流暢に話す)親は、そうでない親よりも子におよぼす言語教育の効果も高くなると予想できる。しかし遺伝学者からのこうした指摘は社会科学者に鬱陶しがられるそうだ。つまりハーデンによれば、ある種の社会科学者は遺伝の影響を無視する不当な「バイアス」を帯びている。

 本書第三の読みどころは、一言で「運」だ。遺伝子の違いが大きな社会的格差をもたらすと前提した時、社会の理想はどうあるべきだろう。ある人が特定の遺伝子を持つことの究極的原因は「運」だ。世論調査によると保守は、リベラルと比べると人生の成功の原因に「運」を挙げることに消極的だ*4。「お金持ちは懸命に努力したからお金持ちになった」と信じる人が多いのだろう。言い換えるとリベラルは保守と比べて、人生の成功や失敗の原因が「運」にあると認めることに寛容だ。代表的なのは哲学者ジョン・ロールズの思想だ。ロールズの考えでは、個人が裕福な家庭に産まれ落ちることや、個人が特定の才能を持っていることは、単に「運がいいだけ」のことに過ぎない。そして運の良さから得た報酬を独り占めすることは社会的に不当だとする。ハーデンは「遺伝」もまた親の財産と同じく生まれつきの運に左右されるから、遺伝の問題は運の問題でもあると指摘する。

 ロールズやハーデンの「運の論理」が持つ含意を、冒頭で述べた「遺伝子自己責任論理」と比べてみよう。レイシストによると、遺伝が原因で生じる人種間格差を是正する義務はない。もしも仮に明日、「大まかに言ってヨーロッパにルーツを持つ人々の潜在的知的能力は、遺伝的原因のために、他のグループよりも平均的に高いことが判明した」といったニュースが報じられたとしよう。平等主義者はこの新しい現実に有効に対処できるだろうか。たとえば「遺伝子自己責任」論者から、「遺伝による能力差があるとしても、学力テストがすべての人々に対し公平に行われたならば、『機会の平等』は保障されている。だから結果を受け入れるべきだ」と言われればどう応えるだろう。平等主義者の基本的見解は、「人種は非科学的概念だから、人種間で潜在能力に差があることはありえない」というものかもしれない。しかしこれは過去の経験的事実に頼った、心もとないディフェンスではないだろうか。この論法を使う人にとって遺伝の科学は、常に不安の材料となり続ける。

 ロールズとハーデンによる「運の論理」に依拠すると、将来の科学的発見や怪しげなニュースに左右されない安定した理想を確保できるメリットが得られる。運の論理は、仮に人種間にいかなる「遺伝的格差」があったとしても、そのことは運の違いにすぎず、幸運だったグループの人々から社会的格差を是正する責任が消えることはないと主張するからだ。したがって「運の論理」と親和的なリベラルは本来、「遺伝の問題」を「運の問題」と同じように扱うことで、不安を感じることなく遺伝子ー社会関係の知見と向き合えるはずだ。保守も、ある不運がある人の苦しい境遇を生み出したと理解した時は、不遇な人への再分配を支持する傾向があるとされる。そのこともあってハーデンは遺伝現象を「運」と関連付けることを、遺伝子ー社会関係に幅広い人々が関心を持つための突破口と見ている。

 それでは「遺伝子の格差是正」とは具体的に、遺伝子の異なる人々をどのように扱うことなのだろう。12章でハーデンはGINA法(遺伝情報差別禁止法)という、遺伝情報に基づく差別や排除を禁じる法律について批判的に論じ、改善案を提示している。例えば現行GINA法では、保険会社が生命保険や住宅ローン保険から遺伝リスクの高い人を追い出すことや、住宅市場における排除を禁じていないとされる。またより積極的な支援も提案している。多遺伝子指数とGWASを用いることで、遺伝的リスクの高い人々を見つけ出し、支援が可能になるとハーデンは言う。ハーデンの語るところでは、どうやら遺伝は個人の運命を「決定」はしないようだ。学校や家庭において適切な教育やしつけによる介入が行われると、遺伝の悪影響は小さくなる。

 まだ議論喚起が必要な段階だからか「介入」の実例が本書には少ないのだが、ハーデンの理想は、人それぞれの遺伝的特性に合った支援を行う教育・福祉・社会であるようだ。これはダイバーシティ(多様性)や「障害の社会モデル」*5の理念に依拠している。ハーデンの描く新しい社会とは、発達障害者や精神疾患者に対する支援の適用範囲を、「遺伝的差異という個性をもつひとりひとりの個人」にまで広げた社会だと考えると理解しやすい。ハーデンは教育や治療やトレーニングなどの「介入」を行い、遺伝による不平等を軽減できると説明する。ところがハーデンによると、教育関係者も政策立案者も遺伝の影響にかんする議論をタブー視するから、結果として遺伝がもたらす社会格差を放置してしまっている。読者に遺伝子ー社会関係を正しく理解するよう促した上で、ハーデンは「社会は、遺伝子の『くじ引き』で最も不利だった人たちの有利に働くように構成されるべきだ」という価値観の定式化を行う。この主張はもちろん、ロールズの格差原理をヒントにしている。

 最後は本書に批判的なことを一つ述べる。ロールズ哲学への接近が、ハーデンの「格差是正」に関する議論に手薄な面を作り出しているように思う。ハーデンの議論では、格差是正を行う主たるエージェント(行為者)として、暗に国家が想定されている。例えば教育行政は国の予算を用いて、数学が苦手な子どものために特製のカリキュラムを用意するだろう。つまり国家は遺伝的に不利な個人の法的権利を守り、また適切な支援を行うことができる。しかし個人や企業の自由な欲望は一般に、選好と市場メカニズムに沿って「優れた個人」を好み、それより「劣った個人」を遠ざけたがる。このため市場メカニズムを、進化論の自然選択と似たものだと考える人は少なくない。そして人々の欲望に対して国家が干渉や管理を企てれば、自由民主主義の国では当然ながら批判されたり警戒される。このため遺伝技術が差別や不平等を促進する危険は、政府が人々に介入する時よりもむしろ、政府が人々に介入できない場合の方が大きくなるのではないか。国家主導で優生政策が行われた100年前と今では状況はかなり違う。人々の草の根優生学的「欲望」による「自由」な自然選択に対し、自由民主主義の国はいかなる論理でどの程度まで介入し、規制する義務があるだろうか。一例を挙げれば、親にとって遺伝的に望ましくない胎児を中絶することを、「運の論理」では止められない。ある種の中絶行為は、個人が行う優生思想の実践ではないだろうか。

*1:本人の公式サイト内“about”より :https://www.kpharden.com/about

*2:『The Genetic Lottery』Kindle版 位置No.4098/6527頁

*3:『The Genetic Lottery』Kindle版 位置No.184/6527

*4:保守・リベラルと運:第10章“Personal Responsibility”参照

*5:ある人の心身の障害(不自由さ)は、単に個人の物質的特徴のみから生まれるものではなく、健常者優先の制度・文化・価値観との相互作用から生じる。このため社会の側が変わり、障がいのある人を支える責任がある、とするモデルのこと。