トマス・フランク 著『クールの征服――ビジネス文化、カウンターカルチャー、そしてヒップ消費主義の台頭』(1998年)

タイトル

クールの征服――ビジネス文化、カウンターカルチャー、そしてヒップ消費主義の台頭*1

The Conquest of Cool: Business Culture, Counterculture, and the Rise of Hip Consumerism

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https://www.amazon.co.jp/dp/0226260127

簡単な紹介

 1960年代を中心に、広告の自意識が大きく変化したことを論じる。画一的な価値観へ訴えかける古い広告から、個性の解放と差異を求め、反抗的価値観へ訴えかける新しい広告へ。

 しばしば、この変化は対抗文化(カウンターカルチャー)からビジネス業界への一方的影響によるというものだとされる。商業主義が後からカウンターカルチャーを乗っ取ったとされる。フランクによるとそうではない。広告業界固有の論理に基づき生じたパラダイムシフトなのだという。

 このパラダイムは従来の官僚的価値観を否定し、「差異」や「不適合」「逸脱」を称揚する。そしてすぐさま主流派になってしまった。本書は広告業界の物語だが、消費者における自意識進化の物語でもある。消費者は懐疑的かつ個人主義的になったので、古い広告は廃れ、新しい広告が台頭したという話。

原題

The Conquest of Cool: Business Culture, Counterculture, and the Rise of Hip Consumerism /University of Chicago Press 1998年12月

著者について

トマス・フランク(Thomas Frank):1965年生まれの批評家で、アメリカの文化・政治・ビジネス雑誌The Bafflerの創設者。シカゴ大学歴史学の博士号を取得し、文化と観念の歴史を論じてきた。フランクは「左派ポピュリスト」を自認する。2016年と20年の選挙でバーニー・サンダースを支持したが、ドナルド・トランプ当選を予見した*2

紹介(評者・田楽心 Den Gakushin)

 カウンターカルチャーの物語によると、1960年代のアメリカは大企業が経済を支配し、労働において人々は工場のロボットか巨大組織の歯車にすぎなかった。余暇では大量生産されたモノを購入し、「レヴィットタウン」に代表される、どれも似たり寄ったりな外観の家で、同じような白人に囲まれ暮らした。物質的には豊かではあるが、画一的で抑圧的な社会だったという。理論的には、科学的管理法やマクレガーの「X理論」、W.H.ホワイトの「オーガニゼーションマン(組織人)」といった受動的・集団主義的な人間像が説得力を有していた。

 同時代の気分を伝えるものとして、戦後アメリカの郊外生活の画一性に対する建築評論家ルイス・マンフォードの論評を引用しよう。

木も生えていない見渡す限りの荒れ野では、区別のつかないおそろいの家々が、おそろいの道路沿いに、おそろいの間隔で、数え切れないほどずらりと立ち並ぶ。 同じ階級、同じ所得層、同じ年齢層に属する住人たちは、同じテレビ番組を視聴し、同じ味気ない調理済み食品を、同じ冷蔵庫から取り出して食べ、おなじ工業都市で製造された大量生産品に、心と体のあらゆる側面を適用させようとしている*3

 1968年の世界的反乱は、資本主義体制に根本的に対立し、これを揺るがす一大カーニバルだったとされている。68年は差異と反抗と多様性の年だ。カウンターカルチャーの威力に目を付けた企業と商業主義は、模造品をハリウッドとテレビ局で再生産するようになった。このせいで対抗文化は堕落したとされる。カウンターカルチャー側に「純粋さ」が十分でなかったから、商業主義に取り込まれてしまった、としばしば非難されもする。

 本書でトマス・フランクはこれとは異なる見方を提示する。企業は後追いでカウンターカルチャーに追従したのか?いいや違う。広告業界では新世代のカリスマが現れ、カウンターカルチャー的感性を先取りしていた。新しい広告人たちは、カウンターカルチャーに価値観を同じくする「同志」を見い出した。というのがフランクの中心的論点だ。カウンターカルチャーが「資本主義体制に根本的に対立」という部分が間違いで、新しい広告とカウンターカルチャーには元々大きな共通性があった。両者は合流するべくして合流したのだという。

 広告業界では、60年代のカウンターカルチャー以前から、カウンターカルチャーに対応する感性が生まれ育っていた。クリエイティブ気質の広告マンたちは、当時支配的だった業界慣習に徹底的反逆を企てることで、名を上げていった。一躍時代の寵児となったドイル・デーン・バーンバック社(DDB)はその典型だ。創業者バーンバックは、世論調査と科学的ルールに従う広告作りの理念が支配的となる1950年代を目前に創業し(1949年)、「ルールは徹底的に無視するべきである」と宣言した。官僚的ルールは創造性を殺してしまうとして、彼はルールと集団主義を敵視した。

 バーンバックは、フォルクスワーゲンの広告では、VWの車の欠点を逆手に取ったPRを行った。「醜い」「靴箱」「おかしな車」「かなり酷い」「カブトムシみたい」といった、自社のクルマへの批評めいたコピーライティングを展開した。一般的感性からみるとVWのクルマは「不適合」なものですと位置付けたのだ。そこには新時代の消費者が、アンチ大衆社会・アンチ適合主義のセンスを理解し支持してくれるとの目論見があった。

 DDBはレンタカーのエイビス社の広告においては、「私たちは二番手」のレンタカー屋です。「私は生活のためにエイビスの広告を書いています」「だからって、金で動く嘘つきではありません」といった、奇抜なコピーを用いた。「この国の人々はもはや広告を信じていません。それにはもっともな理由があります」と述べるメタな広告も出した。ところがスポンサーであるエイビスの欠点を認める広告は、かえってエイビスの評判を高めた。DDBは時にスポンサーの意向に反してでも、「創造性」という神託に誰もが従うことを求めた。あるときスポンサーが広告の修正を求めると、DDBの社員たちは激怒した。それでもどうしても決定権が欲しいとスポンサーが頼み込むと、バーンバックは「それならDDBは、あなたがたとのビジネスから降ります」と最後通牒を突き付けた。

 とはいえ、もしもDDBの広告がビジネスとして成功しなければ(DDBの収益率は非常に高かった)、DDBの「反逆」の勢いは続かなかっただろう。フランクは、新しい広告の成功の理由を、消費者の自意識の変化に求める。それまで広告を支配していたパラダイムは、科学っぽさと権威だった。たとえば「歯磨き粉」の広告なら、白衣で眼鏡の男性が、歯磨き粉の有効成分と効果をくどくど説明するといったもの。子どもや無知な人に対し、科学や白衣や眼鏡や権威が説明してあげるかのような広告のスタイル。これは消費者の自意識を見くびっていると受け止められかねない。広告制作の現場も同様に官僚的で、科学法則を真似たルールとマニュアル主義が支配していた。

 古くさい広告のせいもあって消費者は、冒頭で述べた「管理社会」の「画一性」という社会イメージへの確信を深め、うんざりしていた。旧来の科学的広告のパラダイムでは、消費者心理は科学的に操作できると期待していた。こうした科学者・技術者によるテクノクラシーへの不信感もあった。新しい消費者は広告に懐疑的だ。企業は私たちを広告で上手く丸め込んで、商品を買わせようとしているのではないか……偉そうな広告には、もう踊らされない。この状況でDDBが「この国の人々はもはや広告を信じていません」と広告を打ち出したわけだから、心に響く。

 消費者の発達した自意識に対しては、科学と権威という従来のまじめ腐った広告パラダイムに代わる、「創造性」のパラダイムによる説得が有効だった。DDBの広告は、フォルクスワーゲンの広告が典型的なように、売りたいはずの商品に懐疑的な声を前面に押し出し、売りたいはずの商品の欠点をユーモラスにあげつらって見せた。一見すると商品価値を伝達し損なっており、スポンサーの利益に反している。しかし「誠実さ」によって、新しいタイプの広告は新しい消費者の共感を勝ち得ることができた。

 何より新しい感性に基づく広告は、新しい感性の消費者にとって「クール」だ。そしてクールな商品イメージは、企業にとっても役に立つ。というわけでフランクは、カウンターカルチャーを企業が形だけパクったのではなく、新しいパラダイムの企業人たちは、新しい広告にピッタリの消費者精神と「同志」を、カウンターカルチャーの中に見出し喜んだのだ、と主張する。

 企業は「革命」や「反抗」のイメージを活用し、消費を喚起した。バージニア・ スリムという女性向けのタバコ銘柄は1960年代にフェミニズムのイメージに乗っかり、広告で「昔は投票権も財産権もなく、囲い込まれていた。だから屋根裏で隠れて煙草を吸うしかなかったんですよ、お嬢さん。」と新しい消費者に語りかけた。今では女性が自由にタバコを吸える。さあ買いましょう。ペプシセブンアップは、圧倒的優位を誇るコカコーラを、画一性支配の象徴に仕立て上げ、自らを体制に「不適合」な「アンチ・コーラ」や「反逆者」と位置づけブランディングした。これはSDGsウォッシュやピンクウォッシングといった最近のトピックを想起させる。

 「生産者」として労働現場で抑圧されストレスを溜め込むほどに、「消費者」としての自分は、余暇には反抗的・解放的に商品・サービスを消費したくなる。これが皮肉な「ヒップ消費主義」のサイクルだ。フランクによれば、消費は「反抗」として再定義されたのだ。

感想

 本書が鮮やかに描いて見せたのは、資本主義の柔軟性の高さだ。消費者が企業や「体制」に不満を抱けば、消費者の不満を燃料にするかのような広告を打ち出してみせる。

 フランクの議論で思い出すのがテレビの事だ。メディアによる大衆操作への視聴者の不信感を逆手に取って、テレビ番組は「業界ネタ」「楽屋裏」をチラ見せして番組視聴へと向かわせた。新しい広告が、旧来の広告を疑ったりネタにしたり自己批評して見せたのと重なる。成熟したメディアは、広告でもテレビでもそんなひねくれたコミュニケーションスタイルを駆使するようになるのだろう。

 DDB的な、ちょっとひねった広告は、今では広告の通常スタイルになった。「差異を追求しよう」「もっと個性的に」「抑圧に反抗しよう」との呼びかけは、新しい広告人たちにとって、資本主義体制を壊すといった大仰なものではなかった。彼らは単に、ダサくて硬直化した業界に「ブチかましたかった」のだろう。

 新しい広告人が敵視した古い資本主義の感性を、仮に「資本主義1」と呼んでみよう。今では「差異を追求しよう」「もっと個性的に」「抑圧に反抗しよう」といった新しい「資本主義2」の感性は、ファッションやエンタメコンテンツを筆頭に、資本主義社会の様々なところに浸透した。資本主義1が資本主義2に完全に置き換わったわけではないにしても、華やかな業界や企業ほどこの感性とガッチリ握手している。SDGs」は「抑圧に反抗しよう」という資本主義2のメッセージを、最大公約数的に穏やかなかたちで表明したものと言える。

 世の中を批判的に見るはずの「現代思想」のなかに、かえって「資本主義2」と同質のメッセージを非常によく見かけるのは皮肉だ。「差異を追求しよう」「もっと個性的に」「抑圧に反抗しよう」…広告屋が書いたのか、哲学者のアジテーションなのか区別がつかない。批判される体制と批判する側が似たようなメッセージを発して、方向感覚を喪失しそうになる資本主義2に対するより深い洞察を、どうすれば得られるだろう。少なくとも、「差異を追求しよう」「もっと個性的に」「抑圧に反抗しよう」と叫ぶだけでは不十分だ。

*1:もしかすると、訳は「クールの獲得」が良かったかもしれない

*2: 

Thomas Frank - Wikipedia 

*3:小野良子「ジミー・ポーターの怒りの向こう側 : 1950年代アメリカの光と影」2017年 より孫引き。なお"The Conquest of Cool"にポーターのこの文章はない。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120006008515